【憲法】 目的二分論と二重の基準論の関係について
今日は、目的二分論と二重の基準論の関係について、一言。
誤解されやすい箇所である。
■条文
22条1項
何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。
■定義
消極目的規制とは、 「主として国民の生命および健康に対する危険を防止もしくは除去ないし緩和するために課せられる規制」を言う(芦部信喜〔高橋和之補訂〕『憲法 第三版』〔岩波書店、2002年〕205頁)。
積極目的規制とは、「福祉国家の理念に基づいて、経済の調和のとれた発展を確保し、とくに社会的・ 経済的弱者を保護するためになされる規制」を言う(前掲・芦部205頁)。
二重の基準論とは、「人権のカタログのなかで、 精神的自由は立憲民主制の政治過程にとって不可欠の権利であるから、それは経済的自由に比べて優越的地位を占めるとし、したがって、 人権を規制する法律の違憲審査にあたって、経済的自由の規制立法に関して適用される『合理性』の基準は、 精神的自由の規制立法については妥当せず、より厳格な基準によって審査されなければならないとする理論」を言う(前掲・芦部100頁)。
■判例
最高裁は、いわゆる小売市場距離制限事件(最大判昭和47年11月22日刑集26巻9号586頁)や、薬事法距離制限事件(最大判昭和50年4月30日民集29巻4号572頁)などで、次のような命題を示した(前掲・芦部206頁、長谷部恭男『憲法 第3版』〔新世社、2004年〕241頁参照)。
即ち、経済活動の規制措置が消極目的規制の場合には、「裁判所が規制の必要性・合理性および 『同じ目的を達成できる、よりゆるやかな規制手段』の有無を立法事実に基づいて審査する『厳格な合理性』の基準」を用いる。
規制措置が積極目的規制の場合は、 「当該規制措置が著し不合理であることの明白である場合に限って違憲とする」明白の原則を用いる。
■二重の基準論と目的二分論の関係
答案を見ていると、この目的二分論を書く場合に、何故か、二重の基準論を展開した上で目的二分論の論証をするものが多い。
つまり、目的二分論を二重の基準論の延長線上にあるものと考えているような答案が少なくない。
確かに、そのような考え方が「およそ不可能」という訳ではないと思われる。
しかし、一般的には、 目的二分論と二重の基準論は無関係と考えられている。
何故ならば、上記の芦部先生のご説明にもあるように、 二重の基準論とは精神的自由を経済的自由をより篤く保障しようとする理論に過ぎないからである。
換言すれば、二重の基準論は、精神的自由と経済的自由では違憲審査基準を変えるべきだと主張する理論に過ぎない。
つまり、二重の基準論自体は経済的自由に対する規制措置について何ら言及していない。
したがって、目的二分論は、二重の基準とは別個独立の理論なのである。
元試験委員の棟居快行先生も次のように述べられる。
経済的自由に対する規制が問われている場合には、 「経済的自由の規制の中に消極規制と積極規制とがあるというあたりから話を始めればいいだけで、明白の原則をいうために二重の基準から説く必要はありません。だいたい二重の基準論というのは、 消極規制・積極規制という規制二分論とはレベルが違う、そもそも住む世界が違う議論です」(棟居快行『司法試験 論文本試験過去問 憲法』〔辰巳法律研究所、平成12年〕217頁。太字は引用者)。
このような誤解が何故広く存在するのか、その理由は定かではない。
ただ、このような誤解の含まれる答案を参考答案として配布している予備校もあるようである。
したがって、予備校の答案などを盲信するのは避けた方が良いのではないか、と考えられる。
予備校は「巧く」利用すべきである。
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コメント
現在、芦部先生の基本書を使って、独学で違憲審査基準の勉強をしています。ですが、いろいろな言葉が出てきて概念が整理できずに混乱しています。本屋でいろいろ立読みもしましたが、よく分かりませんでした。そこで、もしよろしければご教授ください。
二重の基準により、精神的自由は厳格な基準、経済的自由は精神的自由より緩やかな、合理性の基準を用いる。そして経済的自由ではさらに、消極目的規制に対して「厳格な合理性の基準」を、積極目的規制に対しては「明白性の基準」を用いる、と理解しています。
まとめると、二重の基準と目的二分論によって、厳格審査基準、厳格な合理性の基準、明白性の基準、と3つに分かれ、後ろ2つを合理性の基準と呼んでいるということになります。ここまでの理解は正しいのでしょうか。
そして、ここまでの理解が正しいとして、以上のような基準と、「明白かつ現在の危険の基準」や「LRAの基準」や「合理的関連性の基準」とはどういう関係に立つのでしょうか。自分は、厳格審査基準の中身として、「明白かつ現在の危険の基準」や「LRA」や「合理的関連性の基準」というものがあるのかなぁと思っていたのですが、本屋で見た本には目的・手段審査基準という初めて聞く言葉なども出ていて何がなんだか分からなくなってしまいました。
かなり長くなりましたが、もしよろしければ教えてください。
投稿: 初学者 | 2009年4月26日 (日) 21:44
初学者さん、コメントありがとうございます。
まず、違憲審査基準の分類についてお答えいたしますと、初学者さんが仰るように、3つの違憲審査基準を定立する考え方が一般的です。
ただ、言葉の用い方なのですが、通常は
①厳格な審査基準
②厳格な合理性の基準
③合理性の基準(明白性の基準)
という言葉が用いられます。
②と③を併せて合理性の基準という説明をする方もおられるとは思いますが、現在の学説等では誤解を招きかねませんので、合理性の基準という言葉は、基本的には明白性の基準と同義と考えた方が無難ではないかと思います。
次に、幾つかの関連概念についてお答えいたします。
明白かつ現在の危険基準は、元々はアメリカの裁判で構築された概念で、扇動的な表現に対する規制の合憲性を判断する基準です。
日本の最高裁は、明白かつ現在の危険に類似した考え方を採用したことがありますが、明示的に明白かつ現在の危険基準を採用したことはありません。
そして、明白かつ現在の危険基準は、「目的審査」のための基準で、かなり厳格な基準です。
したがいまして、上記の①~③の枠組みに組み入れるのであれば、明白かつ現在の危険基準は、①の厳格な審査基準の目的審査の部分に位置づけられます。
LRAは、①の厳格な審査基準の「手段審査」のための基準です。
余談ですが、答案でLRAを採用しておきながら合憲の判断を下すと印象が悪くなるおそれが高いです。
言い換えれば、LRAを用いるのであれば、原則として結論は違憲になります。
合理的関連性の基準は、③の合理性の基準(明白性の基準)の「手段審査」で用いられる基準です。
合理性という単語を用いていますが、明白性の基準と同内容です。
投稿: shoya | 2009年4月29日 (水) 17:32
回答上の注意点まで教えていただきありがとうございました。本当に助かりました。
厳格な審査基準、厳格な合理性の基準、合理性の基準という3つの基準それぞれを目的と手段に分けて考えていたんですね。
投稿: 初学者 | 2009年4月29日 (水) 19:54
初学者さん、コメントありがとうございます。
仰るとおり、違憲審査基準では、通常、目的及び手段の双方を審査いたします。
ある人権に対して制約が課せられた場合
①厳格な審査基準が適用されるのであれば
その制約を行う目的が「やむにやまれぬもの」(必要不可欠)であり
その制約の手段が目的達成のために「必要最小限度」のものである必要があります。
②厳格な合理性の基準が適用されるのであれば
その制約を行う目的が「重要」なものであり
その制約手段と目的達成との間に「重要な関連性」が必要です。
③合理性の基準が適用されるのであれは
その制約を行う目的が「正当」なものであれ
その制約手段と目的達成との間に「合理的な関連性」が必要です。
投稿: shoya | 2009年4月29日 (水) 20:02
よく分からないのですが、精神的自由と経済的自由とでは用いる審査基準の厳格度が違うというのが二重の基準ですよね。精神的自由を論じるときは、経済的自由に比べて厳格な基準を用いると言うのに、なぜ経済的自由を論じるときは、精神的自由と比べて緩やかな基準を用いると言わなくていいのですか。
投稿: | 2010年1月15日 (金) 23:41
コメントありがとうございます。
二重の基準論に関しては多くの見解が唱えられていますが,
1つの説明として,立法・司法・行政の"役割分担"に立脚
した次のような説明があります。
即ち,国会(両議院)は,「全国民を代表する選挙された
議員」(憲法43条1項)で構成される「国権の最高機関」
(憲法41条)であって,国民の意思を即応的・弾力的に
法律に反映させる機関です。
したがいまして,国会が制定した法律については原則として
合憲・適法であるという推定が働きます。
このような観点から致しますと,合憲の推定が働いている
以上,裁判所としては,例外的な事情の有無にのみ着目
すれば良いことになります。
言い換えれば,裁判所は,原則として緩やかな基準で
違憲審査権を行使すれば良い(行使すべき)ということに
なります。
このような論理構成の場合,経済的自由に対する規制の
当否を論じるときに精神的自由について言及する必要は
ございません。
仮に言及するとしても上記のような"役割分担"について
言及することになります。
もちろん,これが絶対的に正しいという訳ではありませ
んし,他の見解も存在します。
投稿: shoya | 2010年1月16日 (土) 09:31