【刑法】 早すぎた構成要件の実現についての試論
今日は、時々質問を受ける、早すぎた構成要件の実現(早すぎた結果発生)について、一言。
尚、以下の記述は1つの説明「案」に過ぎない。
したがって、この説明が唯一の正解である訳ではないし、他の見解から見れば”間違っている”という評価も当然あり得る。
■定義
早すぎた構成要件の実現とは、「行為者は第1行為の後に行う第2行為により結果を発生させようとしていたが、第1行為によりすでに結果が惹起されてしまった場合」を言う(山口厚『刑法総論 補訂版』〔有斐閣、平成17年〕193頁)。
■典型例
早すぎた構成要件の実現の典型例は次のようなものである。
Xが、夫Yを殺害すべく、ウィスキーに毒を入れて戸棚にしまっておいたが、Yの帰宅が遅かったため、Xは寝てしまった。
ところが、夫Yは、深夜に帰宅後、自ら戸棚からウィスキーを取り出し、飲酒し、死亡した。
この場合、ウィスキーに毒を入れるというXの行為には実行行為としての危険性が認められ、結果も発生している。そして、行為と結果との間に相当因果関係も認められる。
そのため、殺人罪が成立するようにも思えるが、多数説は、殺人予備罪と(重)過失致死罪の成立しか認めない。
何故ならば、Xには、自己の行為から結果が発生するという認識(実行行為性の認識)が欠如し、故意が認められないからである(以上につき、西田典之『刑法総論』〔弘文堂、平成18年〕211頁以下参照)。
■早すぎた構成要件の実現における問題の所在
つまり、早すぎた構成要件の実現における問題は、故意の有無である。
換言すれば、「当該行為から結果が発生するという認識(実行行為性の認識)が欠如している場合に故意が認められるか」が問題の所在である。
結局、
「この問題の解決は、第1行為の段階での行為者の認識・予見が故意といいうるものか否かにより与えられる。それが故意ならば、単なる因果関係の錯誤であり、第1行為による結果惹起に構成要件該当性が存在する限りにおいて故意既遂犯は成立する」(前掲・山口194頁。青字は引用者)。
ということである。
■最決平成16年3月22日刑集58巻3号187頁
ところが、最高裁は、早すぎた構成要件の実現が問題になった事例において、実行の着手の議論をしている(最決平成16年3月22日刑集58巻3号187頁)。
「認定事実によれば,実行犯3名の殺害計画は,クロロホルムを吸引させてVを失神させた上,その失神状態を利用して,Vを港まで運び自動車ごと海中に転落させてでき死させるというものであって,第1行為は第2行為を確実かつ容易に行うために必要不可欠なものであったといえること,第1行為に成功した場合,それ以降の殺害計画を遂行する上で障害となるような特段の事情が存しなかったと認められることや,第1行為と第2行為との間の時間的場所的近接性などに照らすと,第1行為は第2行為に密接な行為であり,実行犯3名が第1行為を開始した時点で既に殺人に至る客観的な危険性が明らかに認められるから,その時点において殺人罪の実行の着手があったものと解するのが相当である」。
また、学説でも、早すぎた構成要件の実現の箇所で実行の着手の議論をするものが多い。
では、早すぎた構成要件の実現の議論においては、実行の着手について議論することが必要不可欠なのか?
そして、必要不可欠でないならば、最高裁や学説は、何故、このような職権判断を示したのか?
■実行の着手の議論をする必要性は本来無い
まず、早すぎた構成要件の実現の議論において、実行の着手の議論をする必然性は本来無いはずである。
何故ならば、実行の着手の議論は未遂犯が成立するか否かという議論だからである。
つまり、前述のように、早すぎた構成要件の実現における問題は故意の有無であって、未遂犯の成立とは無関係である。
では、何故、最高裁や学説は、わざわざ実行の着手の議論をしているのか?
ここからは私なりの理解に過ぎないのだが、恐らく、最高裁は、次のような論理を採用しているのではないか。
1. 当該行為で結果を発生させるという認識が無ければ故意は認められない
2. ここで言う「実行の着手あり」とは、「既遂に至る客観的な危険性が発生している」ということを意味する。
3. 本件では、第1行為と第2行為が時間的・場所的に近接しており、両行為は言わば一連の行為――1つの行為―― と言い得る。
4. そして、行為を1つと考える場合、”既遂に至る客観的な危険性が発生した時点”で構成要件実現の意思があれば、「完全な行為反価値あるいは故意責任は実現されたのであり、当初の行為計画が維持され、別の新たな意思が生じていない限り、あとは相当因果関係の有無が残るにすぎない」(安田拓人「判批」『平成16年度重要判例解説』158頁)。
但し、大塚裕史先生は次のように説明される。
「もし、第1行為に殺人罪の実行の着手が認められないときは、『実行の着手=実行行為の開始』と解する伝統的な立場からは、第1行為は予備行為であり、第2行為を実行行為と考えざるを得ないが、第2行為の時点ではVは死亡しており、せいぜい殺人未遂罪が問題になるに過ぎないことから、第1行為の時点で実行の着手を認める実益がでてくる」(大塚裕史「演習」受験新報2004年11月号108頁。尚、上記「V」は原文では「A」になっている)。
■私見
……しかし、私は、最高裁のような構成は迂遠ではないかと考える。
結局、最高裁や多くの学説は、「客観的に1つの実行行為が認められるか」という判断をしている。
つまり、「早すぎた構成要件の実現の事例」には2つの行為が存在するところ、最高裁・多数説は、それらを1つの実行行為と評価することによって、
「早すぎた構成要件の実現の事例(2つの行為が存在する事例)」 を
「1つの実行行為が存在する典型的な事例」に
変容させ、処理しているのではないか(異論はあり得る)。
早すぎた構成要件の実現の事例では、”一連の行為”を通じて犯罪を実現する意思は明らかに認められるのであるから、行為自体を2つと見るのではなく、”一連の行為”という1つの行為と評価すれば良い―― 最高裁や学説はこのように考えているのではないかと考えられる。
確かに、この論理は分かりやすいものである。
しかし、私自身は端的に故意の議論をすれば良いではないか、と考えている。
即ち、早すぎた構成要件の実現においては、一般に、第1行為には実行行為としての危険性が認められる。平成16年の事案でも、クロロホルム吸引行為には十分な危険性が認定されている。
つまり、客観的に結果を帰属することは正当化されるのである。
問題は主観的に結果を帰属させることが正当化されるかどうかである。
そして、ここが多数説とは異なるのだが、当該行為によって結果を発生させることの認識・認容は不要なのではないか?
確かに、早すぎた構成要件の実現が問題になる事例においては、第1行為の時点では「この行為ではなく、これに続く第2行為で結果を発生させる」という程度の認識・認容しかない。
しかし、故意の本質を直接的な反規範的態度に求めるのであれば、「この行為ではなく、これに続く第2行為で結果を発生させる」という認識・認容であっても、結果を発生させるという事実の認識――即ち、規範の問題――に直面している以上、故意責任は問いうるのではないか。
このように考えるのであれば、規範の問題を自ら突破している以上、故意責任として欠けるものは無いはずである。
そして、このように考えることのメリットは、第1行為と第2行為を”一連の行為” と評価できない場合であっても故意責任を問いうるという点にある。
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コメント
平成25年司法試験刑事系1問で出題されました・・・
事例はクロロホルムとは違い第一行為での危険性がなかったという事案だったと思います。
大変参考になりましたのでコメントさせていただきます。
投稿: あまた | 2013年5月18日 (土) 17:51
初めてコメントします。
早すぎた構成要件の実現においては、たしかに通説は実行の着手を問題にしますが、それは当然のことだと思います。
刑法上、実行行為時に故意が存在することが犯罪成立の要件になっているはずです(実行行為と故意の同時存在の原則)。この原則を崩す学説もあるやに聞きますが、所詮有力説です。故意と実行行為の同時存在が必要となるがゆえに、死亡結果との因果関係のある現実的な最後の行為である、「第一行為」に結果発生の危険性が認められ、そして当該行為時に故意が存在することが求められているのです。
投稿: | 2014年1月21日 (火) 19:29