別稿で紹介させていただいた、大島眞一『完全講義
民事裁判実務の基礎』(民事法研究会,平成21年)の処分証書の定義に関連して、新62さんから的確なコメントを頂戴いたしましたので、今日は、処分証書に関するご説明を致します。
■定義
表示主義とは、
「意思表示の効力の根拠は表示に対する相手方の信頼保護にある、とする考え方」
をいいます。
そして、表示主義に立つと、
「意思表示の瑕疵に対処する際には、表示行為から推測される意思内容が重視される」
ことになります。
意思主義とは、
「意思表示の効力の根拠は表意者の意思にある、とする考え方」
をいいます。
そして、意思主義に立つと、
「意思表示の瑕疵に対応する際にも、表意者の意思が重視される」
ことになります(以上につき、佐久間毅『民法の基礎1 総則』〔有斐閣、初版、2003年〕52頁)。
意思表示とは、
「一定の私法上の法律効果を発生させるという意思を外部に表示する行為」
をいいます(山本敬三『民法講義I 総則』〔有斐閣、初版、2001年〕108頁)
■処分証書の定義
代表的な書籍によれば、処分証書は次のように定義されています。
「処分証書とは、意思表示その他の法律行為を記載した文書をいい、判決書のような公文書のほか、遺言書、売買契約書、手形のような私文書がある。」(裁判所職員総合研修所監修 『民事訴訟法講義案(改訂補訂版)』〔司法協会,平成20年〕 204頁)。
「処分証書とは、立証命題である意思表示その他の法律行為が記載されている文書であり、契約書、手形、遺言書などがこれに当たる。」(司法研修所編『民事訴訟における事実認定』〔法曹会,平成19年〕18頁)。
「処分証書とは意思表示ないし法律行為が記載されている文書」をいう(田中豊『事実認定の考え方と実務』〔民事法研究会,平成20年〕55頁)
処分証書とは「それによって証明しようとする法律上の行為が直接その文書によってなされた」ものをいう(高橋宏志『重点講義 民事訴訟法 下〔補訂版〕』〔有斐閣、2006年〕113頁)。
「処分証書とは、意思表示がその文書によってされているものをいう。手形、遺言書のように書面でしなければならないもののほか、売買契約書のように売買契約締結をその文書で行った場合も含まれる」(大島眞一『完全講義民事裁判実務の基礎』〔民事法研究会,平成21年〕525頁)。
「処分証書とは、これによって証明しようとする法律上の行為がその文書によりなされたものをいい、例えば、契約書、手形、遺言書、解約通知書などがこれに当たります。」(加藤新太郎編『民事事実認定と立証活動 第I巻』〔判例タイムズ社,
2009年〕67頁以下〔村田渉発言〕。尚、4頁には須藤典明判事による定義もある)。
■処分証書の重要性
民訴の理論を学んでいるときには気づきにくいのですが、実務上、処分証書は極めて重要です。
その最大の理由は、判例上、処分証書が真正に成立している場合には、特段の事情がない限り、(原則として)その記載どおりの事実を認めるべき、とされているからです(最判昭和32年10月31日民集11巻10号1779頁、最判昭和45年11月26日集民101号565頁、最判平成11年4月13日判時1708号40頁、最判平成14年6月13日判時1816号25頁など)。
そのため、処分証書が実務上果たしている役割は極めて大きく、処分証書に該当するか否か、処分証書の成立の真正が認められるか否か、は重要な問題です。
このように非常に重要な処分証書ですが、実は、上記のとおり、処分証書の定義(範囲)については争いがあります。
即ち、上記の処分証書の定義は2つのグループに分類することができます。具体的には、前三者のグループと残りのグループです。
そして、結論から申し上げれば、前三者のグループは表示主義を尊重し、処分証書の一般的重要性を高く認める傾向にあり、残りのグループは意思主義を尊重し、処分証書の一般的重要性を前三者のグループほど高くは認めません。
上記の処分証書の定義の差異は、このような考え方の差異に基づきます。
以下では、上記の2つの考え方の具体的な差異についてご説明いたします。
尚、説明の便宜のために、以下では、前三者のグループを表示説、残りのグループを意思説と呼びます。
※ 余談ですが、ある概念の定義は、その定義が関与する全ての問題において適用されるものです。
したがいまして、定義を作成する際には、当該概念が問題になる全範囲の問題を踏まえた上で、それらの事象に共通する要素を抽出し、かつ、体系的整合性を維持しつつ(問題の外延の確定)、妥当な結論を導けるようにしなければなりません。
端的に申し上げて、精確な定義は深い学識のある先生でなければ作成することはできません。その意味で、ある書物が優れたものであるかどうかを判断する視点の1つとして、定義がちゃんと記載されているか、という視点はなかなか有益ではないかと思います。
■前三者のグループ(表示説)
まず、表示説の場合、意思表示や法律行為が記載されていれば処分証書に当たるわけですから、処分証書の範囲は比較的広くなります。
これはまさに表示主義を尊重した帰結です。つまり、当該書証に意思表示や法律行為が記載されているのであれば、その書証を読んだ者はその記載内容を信頼するはずであるから、その信頼を保護すべく、意思表示の効力を認めるべき、という論理です。
したがいまして、表示説の考え方に立つ場合、論者によって差異がありますが、処分証書の実質的証拠力はかなり高く評価されます。
最も高く評価する見解は、処分証書の形式的証拠力が認められるのであれば、実質的証拠力も必ず認められるとします。
例えば、田中先生は
「処分証書の形式的証拠力を認めながら、実質的証拠力を否定するというのは違法な事実認定」
とされます(前掲・田中93頁。同旨:前掲・裁判所職員総合研修所208頁。反対:前掲・大島526頁参照)。
この見解は、上述した判例法理の内容を
「処分証書が真正に成立している場合には、特段の事情がない限り、その記載どおりの事実を認めるべき」
と理解します。
そして、この「特段の事情」は、虚偽表示や錯誤などに当たる事実を意味することになります。
もっとも、表示説の中でも、処分証書の実質的証拠力を田中先生ほど高く評価しない見解もあります。
この見解は、上述した判例法理の内容を
「処分証書が真正に成立している場合には、特段の事情がない限り、『一応』その記載どおりの事実を認めるべき」
と理解します(前掲・司法研修所21頁。青字・太字は引用者)。
したがいまして、この見解は、処分証書の成立の真正が認められたとしても、直ちに当該処分証書記載の事実を認めることにはなりません。
つまり、形式的証拠力が認められても、当該処分証書記載の意思表示を基礎づける主要事実は当然に認定されるわけではなく、論理的にはまだ浮動的な常態にあります。
ですから、「特段の事情」は、処分証書に記載された事実の認定を妨げる間接事実を意味することになります(前掲・司法研修所22頁)。
■残りのグループ(意思説)
次に、意思説は、意思主義を尊重し、処分証書の範囲を限定的に考えます。
また、この見解は、田中先生のご見解とは異なり、処分証書の成立の真正が認められる場合であっても、実質的証拠力が否定されることはある、とします。
例えば、村田判事は処分証書の実質的証拠力について次のように述べられていますが、例外があることを認められています(前掲・加藤68頁〔村田渉〕。太字は引用者)。この点では、表示説のうちの、田中先生ほど処分証書の実質的証拠力を高く認めない見解と同じです。
「契約書などの処分証書であれば、その契約書に形式的証拠力があれば、原則として、その契約書によって直接に何ら他の事実の認定を介在させなくても、契約書記載の内容の契約が成立したことを認めることができる」
形式的証拠力については、二段の推定が働きますので、その証明の程度には差異があります。ですから、完全に形式的証拠力の立証が成功している事例もあれば、そうでない形式的証拠力は認められるがその程度が必ずしも高くない事例もあります。また、他の間接事実や書証の提出時期などからすると、処分証書の記載内容に疑問が生じる事例もあります。
そうだとすれば、処分証書の形式的証拠力が認められるからと言って直ちに同処分証書記載の内容の契約が成立したと認めることはできません。
ちなみに、意思説の定義による場合、当初は処分証書と思われたが、審理が進むにつれて同書証が実は処分証書ではなかったことが判明するという事態があり得ます。同種の問題は、書証の作成名義人についても生じます(前掲・高橋124頁参照)。
尚、意思説に対しては、次のような批判が表示説から為されています。
即ち、意思説の考え方に立つと、
「例えば、1つの売買契約について本来の売買契約書以外に税務用の契約書と登記手続用の契約書とを作成したといった場合、後者の二者の契約書は処分証書に当たらないということになり、ある1つの文書が処分証書であるかどうかがその記載の外形からは決することができない」
というご批判です(前掲・田中55頁)。
ただ、このご批判は説得的なのですが、次の理由により、ややずれているのではないか、とも思われます。
即ち、この田中先生のご批判は文書の外形を重視することを前提として成立していますが、そもそも、意思説の論者は既に表示主義よりも意思主義を尊重するという立場決定をした上でその内容を展開している以上、文書の外形を重視するという表示主義的前提批判では話が噛み合いません。
別の観点から言い換えれば、意思説の論者の多くは事実認定の作業を全体的に行おうとしています。もちろん、表示説の論者が事実認定の作業を全体的に行っていないというわけではありません。
比喩的な表現ですが、表示説の論者は”選択と集中”型の事実認定に親和的です。つまり、処分証書の範囲をある程度広くし、かつ、そのような処分証書に形式的証拠力が認められる場合には、「特段の事情」に審理を集中すれば良いという考え方に親和的です。
他方、意思説の論者は、表示説の論者ほど”選択と集中”型の事実認定に親和的ではありません。そもそも、処分証書の範囲が限定的です。
ですから、議論の前提条件が異なるので、結局、批判の対象は表示主義と意思主義に帰結してしまうのではないかと思われます。
■研修所の民裁起案の注意点
話が急に変わりますが、研修所の民事裁判科目の事実認定起案では、上記の表示説の立場に立って認定作業を行うことが求められています。
ですから、起案において意思表示や法律行為が記載されている書証があれば、その書証は処分証書として扱われます。そして、その成立に争いが無ければ(争いの有無は書証目録を見れば分かります)、直ちに実質的証拠力の判断に入って良いとされています。
要するに、研修所の起案においては、処分証書該当性の判断(これは「判断枠組みの決定」と呼ばれることもあります)は、事実認定の”選択と集中”――検討範囲の限定による事実認定の効率化――を実現するために行われます。
以前の記事に対する新62さんのコメントからすると、民事裁判官教官室は現在も上記の方針を採用しているようです。
※ 説明の便宜のために新62さんのコメントを引用させていただきます。
「すなわち,大島先生が用いられている定義に依って事実認定の起案で記録を検討した結果,当初の検討の段階で処分証書にあたりそうだと判断した文書が,実は当該文書そのものをもって意思表示がなされたというような文書ではなかった場合に,判断枠組みは処分証書存在型にならなくなるのではないか,という疑問が生じうるということです。
この点について教官は,そうではなく,その場合も処分証書にあたると考えた上で,実質的証拠力の問題として考えればよいとおっしゃっていました。『これから』争点たる要証事実の有無を検証しようという段階において,そのとっかかりとしての判断枠組みを問うているのであるから,判断し終わった後,結果的に処分証書型ではなかったいうのはナンセンスであるとのことです。」
話が脱線気味になりますが、結局、研修所の民裁の事実認定起案では、”選択と集中”型の事実認定能力養成が目的とされています。
私自身は意思説が妥当だと考えていますので、”選択と集中”型の事実認定には危険性もあると考えているのですが、修習という限られた時間内で事実認定能力を涵養するためには、教官室の方針は効率的だと思います。
加藤判事が述べられているように、
「法曹養成教育の基礎である司法修習では、原則型をきちんと理解することが必要」
です(前掲・加藤46頁)。
そして、ある基礎分野において複数の対立する見解がある場合、はじめからこれらの見解の全てについて満遍なく教育する方法よりも、特定の見解をまず完全に理解させた上で他の見解についても教育するという方法の方が効率的だと私は考えています(完全に個人的な経験則ですが(^_^;))。
そして、意思説よりも表示説の方が時間的に短く理解させて起案させることが可能ですから、上記観点からすると、まずは表示説の考え方に則った事実認定を鍛錬した方が効率的ということになります。また、修習期間内に表示説について十分な理解をさせておけば、あとは実務家になった後に自学自習することが可能だと思われます。
……随分と長文の記事になってしまいました。
ご批判、ご意見を賜れれば望外の喜びです。
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